2013/12/13

ピッテル氏からマルセル・ミュール氏へのインタビュー(前半メモ書き)

アメリカのサクソフォン奏者、ハーヴェイ・ピッテル Harvey Pittel氏が、1993年5月(もしかしたら1994年かもしれない)にマルセル・ミュール氏の住まいである南仏のサナリーを訪れて、インタビューしている映像をYouTubeで見つけた。

ミュール氏へのインタビューというと、ヴァンドレン制作のビデオが有名だが、このビデオはもっとおしゃべり風というか、リラックスした雰囲気の中で話されているのが面白い。「ブランデンブルク協奏曲」に初めてサクソフォンが参加した時のエピソードは初出だろう。てっきりカザルスとともにプラド音楽祭で演奏したときが最初だと思っていたのだが、まさかミュンシュとの共演が初だったとは!知らなかった。

また、ミュール氏の奥様であるポレット氏がしゃべっている様子を観られるというのが、個人的に感慨深い。

以下、自分用の走り書き。誤字脱字はそのまま。間違っている可能性もあるので、情報を引っぱり出す時はかならず元の動画を参照いただきたい。



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8歳のときにサクソフォンを初めて、9歳の時にヴァイオリンを始め、3~4年続けた。教師になるべく勉強を始めた。音楽教師ではない。そのあと、軍楽隊に2年いて、その後ギャルドに入隊した。それからオーケストラの中で少しずつ演奏し始めた。協奏曲・カルテット。カルテットは1929年に結成している。カルテットはフランス、ヨーロッパ、最後はカナダでも演奏した。カルテットでアメリカに行ったことはない。音楽院の仕事が忙しかった。

女性:ミュールはアドルフ・サックスの息子から受け取った美しい手紙を持っているんです。そこには、ミュールへの感謝の気持ちが綴られているんですよ(中略)。

そのアドルフ・サックスの息子が亡くなった時、私は教会で演奏した。1945年に亡くなった。彼はサクソフォンを演奏しなかった。オペラ劇場のファンファーレ音楽隊の指揮者だった。ステージ・ミュージックの指揮者だ。

P:私が初めてクラシックサクソフォンを聴いたのは、あなたのサクソフォンカルテットだったんです。16歳の頃。イベールが2番目。そうやってマルセル・ミュールが好きになった。

女性:私は8歳の時にサクソフォンを聴いた。恋に落ちた。

彼女はとても上手くサクソフォンを吹くんだ。

女性:もう吹いていないけど(笑)

ボストン・シンフォニーのソロクラリネット奏者。その後パリに来て、国立オケのソロクラリネット奏者となった。毎回ではないけれど、楽器を構えながらなぜか息を吸うんだ。そのうち飲み込むんじゃないかと思った(笑)。

P:私の先生はJoe Allardだが、亡くなりました

前のシカゴのコングレスの時に会いました。いや、ジュネーブだったかも。

女性:ヘムケは、あなた(ミュール)のディスクを遅く再生して、どういうふうに音楽が作られているか詳細に分析しようとしていた。ソノリテの科学。彼の生徒みんないっしょにやっていて、彼はビデオカセットレコーダーを持っていたからそんなことができたのだけど、あなた(ミュール)が何をやっているか、あなたの秘密を理解するためにそんなことまでしていた(笑)。面白いでしょう。

P:私はそうやってマルセル・ミュールと勉強しました。

女性:でも、そうやっても、同じには演奏できなかった。

(中略)

女性:ヘムケは私に、多くの人々はいまだに、あなたの録音を聞いている人は多いと教えてくれた。少なくともアメリカではそう!

ポレット:彼はアメリカに行ったの。

なぜかというと、シャルル・ミュンシュと一緒に演奏するため。Trocadero…今はなんて言ったかな、Palais de Chaillotか。ある日、そこで開かれた演奏会で、「ブランデンブルク協奏曲」のトランペットを演奏できる人がいなかった。コンサートの直前に、トランペット奏者がいないなんてありえないけど、実際そうだった!その時、指揮者のミュンシュに言われて「ブランデンブルク協奏曲」をソプラノサクソフォンで初めて吹いた。チェロのトゥルトゥリエがなぜかそのことを知っていてね、彼がスペインのプラドで音楽祭に参加した時、やっぱりトランペット奏者がいなかったんだ。パブロ・カザルスがバッハ「ブランデンブルク協奏曲」を振った時(おそらく速すぎて)トランペット奏者が「できません」と言っていなくなってしまったんだろうね。
トゥルトゥリエがカザルスに、ミュールを呼びましょうと進言したらしい。それほど自信はなかったらしいけど。私がプラドに到着して、最初のリハーサルで、ブランデンブルク協奏曲を演奏して、第1楽章の終わりで…ずいぶん速かったが…指揮を止めずに、「ブラボー!ムシュー!」と叫んだ(笑)。カザルスは幸福だっただろうが、演奏はやっぱり少し速かったな(笑)。

P:つまり、カザルスとの演奏が最初ではなく、ミュンシュとの演奏が最初だったと。なぜミュンシュは「ブランデンブルク協奏曲」の演奏にあなたを呼んだのでしょう?

(Palais de Chaillotの演奏会の時に)トランペット奏者がいなかったから。それを演奏できるトランペット奏者が、そこにいなかったのだと思う。そのいなかったトランペット奏者が誰だかは私は知らないが、とにかくいなかったのだ。

P:サクソフォンの先生はいたのですか?それとも自分でサクソフォンを学んだのですか?

いたよ。私の父だ。実際、私の人生の中で受け入れられなかったものというのは多いが、そのサクソフォンを教えられたことについてはまったくそうは思わなかった。実際、父は全てを私に教えてくれた。でも、どうやって演奏するかではない。父に続いて演奏したわけではない。イメージで、父は全てのことを私に教えてくれたのだ。父は素晴らしいサクソフォン奏者だった。音楽を奏でていた。パリで多くの音楽家とともに暮らしたが、父はそれを職とはしなかった。なぜなら、それで生活していくのは大変だったから。父は音楽を愛し、音楽のためだけに演奏した。彼はパリの軍楽隊で演奏していたとき、オペラや演奏会に行くための安いチケットしか買うことができなった。軍楽隊以外の音楽家にもたくさん会って、そうやって音楽への情熱を増していった。私達はそういう人のことを「Music Lover」とも呼びますね。父はプロフェッショナルとして評価されており、ギャルドにも簡単に入れただろう。そうしていたら、凄いキャリアを積んでいただろうね。私は、学んだことによって自分の演奏を変えた。修正して、変えて…そうやって、新しい表現方法を会得していった。より、表情豊かに。これがあなたも録音で聴いた表現だ。私は、表現には2つの種類があると思う。あなた自身の中にある表現:聴き手としてではなく、演奏家として感じるもの。もうひとつは、外部とコミュニケーションして得るもの。声にもいえるし、他のもの…ヴァイオリン、チェロ、他の楽器すべて。弦楽器の表情を作り出すものとは何か?それは音の波。それを私達はヴィブラート、と長いこと呼んでいる。ある人は、ヴィブラートは貧しい人々のためだと言う。だから、誰も不確かな音程に気付かない。ヴィブラートはそういった意味でパーフェクトだ。その昔、弦楽器はヴィブラートをかけていなかった。弦楽器でヴィブラートが使われるようになったのは、2世紀ほど前のことだ。ヴィブラートが全てを変えた。弦楽器は、歌い手、良い歌い手、女性の歌い手、良い女性の歌い手のような表現を行うことができる。時折、私達は誰も聴いたことのないような美しい女声の歌声を聴く。

(…続く)

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